2017/02/22

建築のメインストリームはそっちじゃないだろう。





建築家の建築が今ほどつまらない時代はないだろう。それは建築が研究発表の場と化しているからだ。新規性が問われ、汎用しやすい合理性が価値を持つ。あたかもコンセプトとコンテンツがレシピで、それさえあれば建築が出来てしまうかのように語られる。建築が持つ、その場所でしか実現し得ない唯一無二の存在感や生命感は,ほとんど省みられることはない。前者を否定しているのではない。いま、後者があまりにもないがしろにされていないか。情報の共有がし辛く、ネットの時代には不向きで評価が得られ難いのは分かる。だからといって前者が建築のメインストリームのように語られるのは納得がいかない。

建築の歴史のほとんどは、後者が主役だったはずだ。少なくても近代以前はそうだった。何度も聞くが,みんな何のために古い建築を見に行くんだ。まさかエレメントやコンテンツを頂きにいく訳でもあるまい。その場に行かなければ感じることのできない空気感,雰囲気を感じるため、そして,それを自らの建築に生かすためではないのか。

僕は先日、建築を研究論文と小説や詩になぞらえた。建築が情報として処理されやすい今だからこそ、研究論文偏重の大学教授や学者が大仰に建築を語ってはいけない。彼らは建築の一部しか語っていない。彼らには、空間(小説や詩でいう行間)の作り方を教えられない。建築を作る歓び、楽しさを伝えられない。それも建築家を目指す学生が減っている原因のひとつだろう。あなたたちこそ教育者として落第すべきではないか。
空間を作ることが出来る建築家が中心となって建築を語るべきだ。そうなれば、もう少し時代を超えていく建築が増えていくだろう。日本ではまだ、ズントーような建築家に人気が高く少し気休めにはなるが,その理由を語れる先生や学者はほとんどいないだろう。

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