2017/02/24

僕の建築の印象について。



僕の建築を見た人の中に、その作りやディティールの厳格さから住まい手にも厳格さを強いるのではないかと感じる人がいるようだ。その原因を考えてみた。

僕は、30年ほど前、今は亡き写真家西澤豊と出会った。彼は建築をやり始めた僕に、「宇野君、建築家は施主に住み方を強いるようなものを作ってはいけない。ピラミッドにカラーボックスを置いてもその価値は全く変わらない。施主の住まい方で、その価値が変わってしまうような建築は始めから作らない方がいいよ。」と言った。その頃の僕はまだその意味をよく理解できていなかったが、とても印象に残る言葉だった。

後に、設計をする時、建築を見る時、いつもこの言葉で「リアリティー」と「寛容」を測るようになっていた自分に気付く。その後、出会った名建築たちは、例外なくこの2つを持ち合わせていた。後に印象に残るものほど、初見は存在感やリアリティーに圧倒され、寛容にまで思いが至らないことが多い。しかし、そういうものほど、その後訪れるたびにその背後に潜む寛容の奥深さを感じさせられることがよくあった。

「リアリティー」と「寛容」は、僕の建築の命題になった。これらは分ちがたく、別々に存在することはなく、一方が亡くなれば同時に片方も亡くなる。今に至る経緯は省くが、それらを建築に生み出す手法の1つが、自然(じねん)という考え方だ。ありのままを生かし、ありのままを受け入れ、一期一会の偶然性を尊ぶ。それは人智を超えたものに力を借りる手法の1つである。ただこれが厄介なのは、従来の予定調和とは真逆の設計手法だからである。また、この手法は、機能を完璧に約束することが出来ない。僕が声高に「完璧な機能を」というのはこのためである。だから、最低限やっておかなくてはならないのが、完璧な設計と厳格な施工。これを軽んじたとき,建築にならない可能性が出てくる。おそらくそのために最善を尽くそうとする僕の姿勢が、初見で見る人にプレッシャーを与えるのだと思う。

でも、僕はまだ書で言えば,楷書や行書の辺りで彷徨っているのだと思う。コルビジェが晩年ロンシャンを作ったようにいつか草書のような建築を作りたい。そのために神様は「もう少し基本を学べ」と言っているのだと思う。









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