2017/02/25

創造の種



創造のプロセスは、自己治癒のプロセスである。

自分が何によって癒されるか、どうすれば内にある漠然とした不安を解消できるか。

その創造物の事前事後の安心感、開放感の差異が創造のパワーである。

無意識下の自分が真に癒されるものは何か。

邪魔する意識を解放し、無意識を感じることから始まる。

創造の種は千差万別。

決まりがない。

人の数だけ芸術がある。

癒される無意識の種を過去の経験や知識を総動員してリメイクする。

それが創造だと思う。

フェイクニュースからフェイクアーキテクチャーへ


ここ数年のSNSの隆盛によるインターネット環境の変化で

ホームページやブログは、以前のような役目を果たさなくなった。

何もしなければ,知らぬ間に世間からは、全く何もしていない人になる。

インスタをやっていると,情報の賞味期限の短さに驚かされる。

商売人ならば、最小の労力で最大限の効果を出そうとするのは当然だ。

そんな折、最近フェイクニュースの話をよく耳にするようになった。

始めは耳を疑ったが、ヒットを稼ぐために意図的に嘘のニュースを流す。

人の関心を引くために手段を選ばない手法だ。



でもなんだかこれ,僕らの業界でもかなり以前から同じようなことをしていないか。

写真と実物がかなり違うもの。

漆喰だと思ったらペンキだったとか、

メチャメチャ開放感のある建築だと思ったら

街中で絶対そんな風に住めない場所だったり。

数え上げたらきりがない。

それは,紛れもなくフェイクニュースなのだ。

でも、自分が潔白かと言ったら嘘になる。

自分自身の戒めとしてここに記しておこう。

そして,敬愛する写真家を共犯者にしないためにも。




PS
情報を制するものが時代を制す。そして,どの時代、どの業界も多少のフェイク感がメインストリームになる。残念ではあるけれど、我々の業界もここしばらくは、少し強めなフェイクアーキテクチャーが時代を作っていくのだろう。










2017/02/24

僕の建築の印象について。



僕の建築を見た人の中に、その作りやディティールの厳格さから住まい手にも厳格さを強いるのではないかと感じる人がいるようだ。その原因を考えてみた。

僕は、30年ほど前、今は亡き写真家西澤豊と出会った。彼は建築をやり始めた僕に、「宇野君、建築家は施主に住み方を強いるようなものを作ってはいけない。ピラミッドにカラーボックスを置いてもその価値は全く変わらない。施主の住まい方で、その価値が変わってしまうような建築は始めから作らない方がいいよ。」と言った。その頃の僕はまだその意味をよく理解できていなかったが、とても印象に残る言葉だった。

後に、設計をする時、建築を見る時、いつもこの言葉で「リアリティー」と「寛容」を測るようになっていた自分に気付く。その後、出会った名建築たちは、例外なくこの2つを持ち合わせていた。後に印象に残るものほど、初見は存在感やリアリティーに圧倒され、寛容にまで思いが至らないことが多い。しかし、そういうものほど、その後訪れるたびにその背後に潜む寛容の奥深さを感じさせられることがよくあった。

「リアリティー」と「寛容」は、僕の建築の命題になった。これらは分ちがたく、別々に存在することはなく、一方が亡くなれば同時に片方も亡くなる。今に至る経緯は省くが、それらを建築に生み出す手法の1つが、自然(じねん)という考え方だ。ありのままを生かし、ありのままを受け入れ、一期一会の偶然性を尊ぶ。それは人智を超えたものに力を借りる手法の1つである。ただこれが厄介なのは、従来の予定調和とは真逆の設計手法だからである。また、この手法は、機能を完璧に約束することが出来ない。僕が声高に「完璧な機能を」というのはこのためである。だから、最低限やっておかなくてはならないのが、完璧な設計と厳格な施工。これを軽んじたとき,建築にならない可能性が出てくる。おそらくそのために最善を尽くそうとする僕の姿勢が、初見で見る人にプレッシャーを与えるのだと思う。

でも、僕はまだ書で言えば,楷書や行書の辺りで彷徨っているのだと思う。コルビジェが晩年ロンシャンを作ったようにいつか草書のような建築を作りたい。そのために神様は「もう少し基本を学べ」と言っているのだと思う。









2017/02/23

求められていること 許されていること



建築は、研究発表の場ではないし、考えやアイデアを表明する場でもない。

ましてや自己顕示欲や承認欲求を満たすものでもない。

もし、建築が我が子のように思えるなら、二義的な目的はありえない。

求められているのは、機能的な建築を完璧に作り上げること。

許されているのは、作ることを楽しむこと。  (註 主語は施主じゃないよ)







Architecture neither is a place by the presenting research nor is also the place where the design and an idea are expressed.

Even more, it does not satisfy self-recognition desire or approval desire.

If architecture seems like my child, the secondary purpose is impossible.

What is required is to make functional architecture perfectly.

It's only to enjoy making to be permitted.  {The subject is not the client}

2017/02/22

建築のメインストリームはそっちじゃないだろう。





建築家の建築が今ほどつまらない時代はないだろう。それは建築が研究発表の場と化しているからだ。新規性が問われ、汎用しやすい合理性が価値を持つ。あたかもコンセプトとコンテンツがレシピで、それさえあれば建築が出来てしまうかのように語られる。建築が持つ、その場所でしか実現し得ない唯一無二の存在感や生命感は,ほとんど省みられることはない。前者を否定しているのではない。いま、後者があまりにもないがしろにされていないか。情報の共有がし辛く、ネットの時代には不向きで評価が得られ難いのは分かる。だからといって前者が建築のメインストリームのように語られるのは納得がいかない。

建築の歴史のほとんどは、後者が主役だったはずだ。少なくても近代以前はそうだった。何度も聞くが,みんな何のために古い建築を見に行くんだ。まさかエレメントやコンテンツを頂きにいく訳でもあるまい。その場に行かなければ感じることのできない空気感,雰囲気を感じるため、そして,それを自らの建築に生かすためではないのか。

僕は先日、建築を研究論文と小説や詩になぞらえた。建築が情報として処理されやすい今だからこそ、研究論文偏重の大学教授や学者が大仰に建築を語ってはいけない。彼らは建築の一部しか語っていない。彼らには、空間(小説や詩でいう行間)の作り方を教えられない。建築を作る歓び、楽しさを伝えられない。それも建築家を目指す学生が減っている原因のひとつだろう。あなたたちこそ教育者として落第すべきではないか。
空間を作ることが出来る建築家が中心となって建築を語るべきだ。そうなれば、もう少し時代を超えていく建築が増えていくだろう。日本ではまだ、ズントーような建築家に人気が高く少し気休めにはなるが,その理由を語れる先生や学者はほとんどいないだろう。

焼きいも専門店 丸じゅん



先日の日曜日に長女が刈谷にミュージカルを見に行くというので
家内と一緒にドライブがてら送って行った。

3時間ほど時間があったので,
家内が急に近くの焼き芋屋に行こうというので行ってきた。
ちなみに家内は焼き芋はあまり好きではない。


最近TVで時々取り上げるので、ご覧の通りの賑わいだった。



10分ほど待って、紅はるか、紅天使、甘太くんを2本ずつ計6本買ってきた。
写真を撮り忘れたので写真はないが、
1本がペットボトル500mlを一回り小さくしたくらい。
どれもハズレがなく,焼きかたもむらなくとてもおいしかった。
「また来よう」と言いたいところだが、しかし、








































焼き芋6本で3千円越え。
一本平均500円以上。
安いランチが食べれそう。
さすがのイモ男も躊躇せざるを得ない。
最近スーパーでも表面に密が出ているいもを買うとまずハズレがない。
ブランドはあてにならない。
内には秘密兵器薪ストーブがある。
これらを鑑みて,おそらくリピートはないなと思った。
ただ,おいしかったのは間違いない。













2017/02/18

和箱の試作が出来た。


一昨日、野村紙器さん野々村さんから、お願いしてあった和箱の試作が出来たとの連絡があったので、早速行ってきた。
貼る和紙は先日,熱田の「紙の温度」で探してきた2種類の和紙を提供した。



やっぱり手作りはいい。
日本の職人は素晴らしい。
仕事が丁寧。
心が伝わってくる。



こんな感じで開いて,上げ底になっているので説明書や部品,工具類は下に納める。




素材感や箱の作りなどは,実物出ないとなかなか伝わらないな。
ほとんどは外国に贈るものなので、この微妙な素材感や職人技が分かるかが心配。
自己満足に終る可能性もあるが、それを含め,僕のものづくりへのこだわりは感じてもらえると思う。























最初はiPhoneと同じ箱にしようと思ったけど、
小ロットにはなかなか対応は難しく、
値段も約2,000円/箱くらいになりそうだったから諦めた。
再度原点に戻り,やっぱり箱も職人の手作りにしようと決めて本当に良かった。
近くにこんな職人さんがいたのもラッキーだった。

マミュアルもほぼ完成に近く,後は梱包の仕方などを決めれば、
杉さんの製品の完成待ち。














2017/02/15

模型は作らない方がいい



施主へのプレゼ以外は、模型はなるべく作らない方がいい。

やたら模型をたくさん作ったことを自慢する建築家がいるが、

あまり感心したことじゃない。

「僕の建築は模型を超えられない」って宣言しているようなもの。

模型は自らのイメージを矮小化する。

育とうとする種を摘む行為だ。



不安は,空間感覚を磨くこと、素材を知ること、

施主や建築に関る人たちとの信頼関係を強くすることでかなり払拭できる。

必ずイメージを超える建築に出会えるはず。

建築がもっと面白くなる。






建築と建物


多くの現代建築は、行間がない論文ようだ。

研究成果や結果を発表しているだけのように見える。

結果にしか価値がないのが論文だ。

そんな建築はつまらない。

小説や詩のように行間のある建築を作りたい。

建築ではそれを空間と言う。

空間のない建築を建物と言う。


PS
建築家の多くは、建築学科卒業だが、小説家や詩人の多くが、文学部卒業というわけではない。
この違いが,建築から空間を失わせているのではないかとさえ思う。
そういう意味では、安藤さんはある時期までドストエフスキーのような存在だった。

私をオープンハウスに連れてって。


僕が,他人のオープンハウスに行かない理由はただひとつ。

面白くないから。

先日も書いた通り、設計者のイメージを超えてないから。

創造力と想像力をかき立てられることもなく、

見たこと以上の発見が何もないから。

アトラクションのような仕掛けを見せられてもつまらないし、

なんだか模型やCGで見たものを確認に行くような感じ。

とにかくワクワクしない。



何百年も建っている建築は,何度見てもワクワクドキドキする。

そして,落ち込む。

僕だけかな?

みんな何で同じ土俵で仕事をしようとしないのかな?

作れなくたっていい。当り前!

その意志を誰も持っていないことが不思議???

京都や奈良に行くのはただの物見遊山か観光か。



みんな他人のオープンハウスに行くと

やたら褒めちぎってるやつがいるけど、あれは本心か?

それとも社交辞令か?


少なくともプロであり、友人であったら、

気付いたことを質問するか、

腑に落ちないことがあったら指摘するか

見せていただいたものの礼儀だろう。

ほめ殺しは失礼。


亜流がどうした。怒!


以前ある雑誌のベテランのエディターに

「あなたの建築は亜流である。あなたと仕事をしたら私のキャリアに傷がつく。」

と言われたことがある。

その時はかなりショックだったが、しばらくたって、よくよく考えてみたら、
僕は、それ以前から建築を似てるとか似ていないで考えたことがなかった。

双子だから価値がないなんてあり得ないし、神社仏閣だって良く似たものばかりだ。

どんなものだって大切なものは、そんなところには絶対にない。

でも,有名なベテランエディターの意見は、おそらくマジョリティーだ。

その後に僕を襲った不安は言うまでもなく、今現実になっている。笑





2017/02/14

久々に自分の建築について書いてみた。





昔から僕の建築は、分かり難いとよく言われてきた。
僕自身は、何が分からないかが分からなかった。
作ってきたものはそれなりに自負はあるし、
おそらく他のどの建築家と比較しても見劣りすることはないだろう。
実物を見たことのある人は、そのことにも納得してくれるだろう。
ただ,それも極一部の人に過ぎない。
写真でもなかなか伝わらない。
やっぱり時々言葉で説明する必要があるようだ。
あらためて今回自分の建築を言葉で表現しようと試みた。
こんな短い分だけど、スタッフの意見を聞きながら何日もかかって書き上げた。
もちろん,僕の建築の断片でしかないけれど、
僕の建築の作り方の根っこは,少し感じてもらえると思う。









                    僕の建築





イメージをリメイクする建築には全く興味がない。自らのイメージを超える建築をずっと模索してきた。今、理想とするのは、完璧な機能と自然(じねん)が調和する建築。そこに豊かさと普遍性があると確信している。


僕にとって建築の機能とは、安全、安心、便利、快適を担う必要条件であり、五感で感じるものすべてのことである。だからディティールにこだわる。誰かの亜流に見えるデザインも、その時のベストであれば躊躇はない。僕のプランが素っ気ないほどシンプルなのは、機能が何よりも優先するからである。

自然(じねん)とは、nature のことではない。古くから仏教用語としてある無為、無意識、ありのままであることをいう。今ここでいう自然(じねん)は、自然環境や自然素材、現場で起こる偶発性、職人の無意識などのことである。

僕は、人の五感と建築との接点を機能と捉え、合理的に設計する。しかし、機能的であろうとすればするほど、自然(じねん)とは、相容れなくなる。そこで留まってしまえば、建築はイメージを超えない。それは僕にとって全く魅力のない建築だ。そんな時僕は、自然(じねん)に委ねる。でも、それはとても怖いことだ。その怖さを減らす手段は、2つしかない。ひとつは、技術や知見を高めることと。もうひとつは、施主からの揺るぎない信頼を得ることだ。どんなに優れた技術や知見があったとしても、施主からの信頼がなければ、武器を持たない兵士と同じだ。だから、僕は自然(じねん)と対峙する前に周到な準備をする。




2017/02/08

紙箱の打合せ


今日は近々,オープンするオリジナルブランドの包装の紙箱の打合せをした。

いろいろ検討したが,最終的には鶴舞にある

創業106年の野村紙器さんお願いすることにした。

職人の手作りが,基本の僕のものづくりは、

やっぱり包装も職人さんの手作りにこだわりたいと思った。








































5代目で職人でもある野村さんと打合せをした。

やっぱり職人さんと打合せをするのは楽しい。

やれることとやれないことがその場ですぐに分かる。

また可能性を探ることもできる。

ほとんどが海外からの注文なので

「和」にこだわった。

仕上の紙は、和紙を貼る和箱にした。

手漉きの無地の和紙を貼ってもらうことになった。

その和紙も僕自身が紙屋さんで調達してくることになった。

シンプルでモダンな和箱が出来そうだ。




2017/02/06

久々の更新。  お勧めのコーヒー豆屋さん

最近は,インスタの方の更新の頻度が多く,こちらは少し休眠状態だった。

久々の更新は,昨日行ったコーヒーの豆屋さんの情報。


最近、僕ら夫婦はこの豆屋さんがお気に入り。
家内が去年の暮れに見つけたお店。
ちなみに彼女は,カフェインレスの豆をネットで探していたら行き着いた。
注文後の自家焙煎を期待していた訳ではありません。

昭和区塩付通にある「Nagoya Beans


この店が他と違うのは,生豆で販売していること。
だから下の写真でも分かるように全部焙煎前だから豆が白い。
初めて行くとビックリ!
豆を選ぶとその場で焙煎してくれる。
焙煎も10段階くらいから選ぶ。































中央にある筒が2つ横になっているのが焙煎器。
焙煎が済むまで20分くらい店で待つ。
その間、ちゃんとカフェのように椅子とテーブルが用意してあって
コーヒーをサービスで出してくれる。
それだけで結構嬉しい。
昨日は家内と長女で三人で行ったけれど、3人分出してくれた。
































今までいろんなこだわりのコーヒー屋さんに行ったけど、
この店のコーヒーを飲んでからコーヒーに対するハードルが高くなった。

コーヒー豆はフルーツだって聞いたことがあるけど本当にそんな感じ。

また,焙煎したてのコーヒーの香りの違うこと。

本当に驚き。

焙煎してる人たちはみんな知ってるはずなのに
納戸焙煎したてをみんな売らないのか不思議に思う。

確かに店で20分も待ってもらうのは、
かなりハードルが高いのかもしれないが、
コーヒー好きならそんなこと、全く気にならない。

豆の種類もオーガニックからフェアトレードまでいろいろある。

知らない人は一度お試しを!

絶対お勧め!

ただし行く時は時間に余裕を。