2015/03/28

ぜんぶ手でつくる 6

6、日本人のものづくり

毎年、様々な国の学生をインターンシップとして受け入れている。人は変われど毎回同じ質問をうける。それは素材などを含めたあらゆる自然との向き合い方や接し方。そして、何を表現しようとしているのか。普段、日本人に囲まれていると全く意識することのないそれらの感覚を外国人に言葉で伝えることで、あらためて自分の建築を見直す機会になっている。
 彼らはやはり常に自然と対面的である。時には挑戦的で時に対立的だ。常に向き合っている感じがする。そういう彼らから見るとボクの建築はかなり不思議に見えるようだ。この説明し辛い感覚をボクはいつもこんな風に話している。日本人は自然と対立的に向き合うのではなく、何故かは分からないが、寄り添いながら生きていく生き方を選んだ。常に自然とのほどよい付き合い方を模索してきた。それはものづくりによく現れている。決して作りすぎず、すべてをコントロールしようとせずにいつも自然の仕業を期待して仕事をとめる。



これは織部の「破袋」です。これはまさしく人と自然との共作だ。ものに内在する自然の形態(意志)に逆らわずにそれを受け入れることで人智を超えた真実(永遠)に迫ろうとした作品だ。素材の中に宇宙の摂理があり、その宇宙の摂理に逆らわずにものを創造しようとすることこそが日本人の思想だ。日本人の表現は常に自然との共作である。まさしく「任す」と「受容する」という自然に対する独特の謙虚さから生まれる美意識だ。彼らはその不思議に興味があるようだ。最後にイサム・ノグチの言葉を紹介する。

「大切なのは、意識や人智を超えた内面から生まれてくる真実を如何にするどくとらえ、表現出来るかである。」



Every year, I have accepted the various countries of the student as internship.Though the student is change, I receive the same question every time. It faces styles and Attitude with any nature, including such material.

「ぜんぶ手でつくる」は、columnのサイトから引越すので、過去のものを一括掲載しました。


5、人は相手の無意識に反応する。
これは手書きの詳細図。無印のダブルリングノートは消せるボールペンと同様僕の必須アイテムだ。ディティールを考えることは、僕の仕事の大半でもあるし最も重要なことでもある。何ヶ月も費やし何度も描き直した案を一瞬のひらめきで変更することも毎回のようにある。僕がすべてのディティールを自分ひとりで考えることに何故こだわるかが今回のテーマ。
 一般的に人が建築に持つ印象は、色、形などのデザインや素材感、そして機能で決まると思われている。いわゆる五感で感じる部分だ。しかし、それは一部であって大切なことが抜け落ちている。例えば、人の印象を初めは外見や言動などで判断する。しかし、付き合いが永くなれば次第にその人特有の空気感、いわゆる情緒性が主要な印象になる。それはまさしく「人は相手の無意識に反応する。」という次元の違う感覚を持っているからだ。人が考え作ったものである以上、建築にもこの無意識が確実に宿る。僕はディティールを考えている時この無意識をとても強く感じる。毎回違うディティールを考えているにもかかわらず、知らず知らずのうちに必ず僕の好みや癖が出る。ミリ単位で寸法を決めていく時、「根拠は?」と問われると答えられない時がある。ここにまさしく僕の無意識や好みが現れていて建物の印象を決定づけている瞬間なのだと思う。
 「神は細部に宿る。」とはまさしくこのことを言う。現在化する表現やメッセージは消費され、目に見えない情緒性は普遍化する。だから建築家は最後の1ミリまで孤独に自分の意思で決めなければいけない。建築は嘘をつかない。建築家の日常が現れる。自ずとやらなければいけないことは分かってくる。



4、共歓を求めて

 1年くらい前からオリジナルのハンドルや照明などの海外からの問合せが頻繁にある。それは個人の場合もあるし、ショップや法人の場合もある。結論からいうとすべてお断りをしている。実は初めの頃、少し心が揺れた。でも、そのおかげであらためて僕が何に喜びを感じて仕事をしているかを再確認出来るきっかけにもなった。
 なぜ売ることを躊躇したかは至極単純なことだった。それは僕が購入する人のことを全く知らないからだ。ボクが考えるハンドルや照明器具などはその建築のためだけにある。必ず特定のクライアントを想定してデザインしたものだ。どういうデザインが似合うか、どうしたら使いやすいかなど必然的に完成品は毎回違う。いわゆる一品ものだ。それが僕の知らない人たちが購入するということは、当然その人たちのために作ったものでもないし、その後の交流もない。カッコいいことを言うつもりはないが、僕はやっぱり僕の周りの人たちの幸せそうな顔をこの眼で見たいんだ。お金だけが僕に残ってもその幸せは半分でしかない。共に歓びあえる「共歓」あってこそだ。そのための手段としてやっていることがクライアントのためだけの「全部作る」「手で作る」ということ。
 僕のやり方がすべて正しいといっているのではない。大企業が行なっているような合理的に機能を満たす生産活動もなくてはならない。その反面、百姓や料理人が、食する人の顔をひとりひとり思いながら作る仕事もあっていいのではないか。余談だが、最近マスコミなどに頻繁に登場するカリスマシェフと呼ばれる人がいる。そういう人たちの中には何店舗も持ち、すべての客に自から料理を振舞っていない人がいる。彼らはその日の食材、天候、客の体調などで変わる料理の神髄を知らない人だ。知っていたとしたらその人はすでに料理人とは言わない。冷凍食品を選んでいるわけではなく、その人の料理を食べるために予約をしてまで足を運ぶお客に対してできる仕事は自ずと限られてくる。建築家も同じ。いやそれ以上に取り返しがつかないという意味においても責任は重い。少なくともクライアントはその後の家族の生活を託しているわけだから。だから、たくさん思いを込めるためにも「全部作る」。深く込めるために「手で作る」。自分の思いおよばない冷凍食品(既製品)のようなものは使わないことだ。
 あらためてものを作って売るという当り前の経済活動を考えたとき、どこまで、どのように人と関るか、そして何を歓びと感じるかをしっかりと自覚した上で行動すべきだ。そうすればお互い選択のミスは少なくなるだろう。



3、雑誌の掲載や賞をもらって喜んでいるうちは ∙ ∙ ∙

 雑誌に掲載されたり,何がしかの賞をもらって喜んでいるうちは、本当に作りたいと思うものが作れないと思う。それでも作れると思っている人は,おそらくそれほどたいしたものは作っていない人だ。
 要は自己プロデュースのことだ。僕らの仕事は、クライアントの決断によって成立する。その決断が何によってなされたかがとても重要だ。それによって最終的に作るものが大きく変わる。自分の仕事の価値を正確に伝えることに細心の注意を払うべきで、評価の材料は、自分でコントロール出来る範囲に留めることが大切だ。
 特に第三者の評価は気をつけた方がいい。例えば雑誌。雑誌は写真の撮り方から始まり、解説文の内容など明らかに編集長の好み、評価,意図が反映する。意にそぐわない内容は往々にしてある。しかし,それを見た人は私の仕事として評価する。もうひとつ問題なのが、何がしかの全国誌の載ったということで一種のお墨付きがついてしまうことだ。そのような多数が評価したと思わせるような情報は、クライアントが自分だけの価値観で決断しようとする時にその正確さを曇らせる要因になる。
 賞も同じことがいえる。主催者の意図や審査員の好みで決まることがほとんどだ。自分と同じ賞をもらったやつがとてつもなく変だったりすると,「俺ってあいつと同じ評価?同じ価値っていうこと?」と思ったりする。何も知らない一般の人は当然そう思う。どういう評価でどういう価値基準で選ばれたか理解しないまま、ブランド価値だけが一人歩きする。じきに「何々賞を取ったから人だから頼もう」なんて人から依頼がきたりする。そうなると最悪。第三者(雑誌や賞)の価値観がものづくりに色濃く反映してくる。それらは大方売れ筋だったり流行のもの、多くの人の共感を得安いものだったりする。時代の基本は外さずに普遍性の無いつまらないものになる。また,そういうものを期待されるし、そういうものしか作れない。
 ボクが建築写真に期待しないのも同じだ。建築写真は写真であって建築ではない。当り前だ。撮る人の意志、価値観が必ず入り込む。自分が撮ってもそうだ。だから写真のクウォリティーなんて実はどうでいい。実物に興味を持ってもらうきっかけになればいい。写真はあくまで写真家の作品だ。ボクの仕事とは全く関係ない。
 大切なことは,自分の価値を他人に侵されないことだ。自分が納得しコントロール出来る情報を地道に気長に出し続けるしかない。ぶれずに研鑽を続けていれば,きっと誰かが見ていてくれる。結果はすぐには出ない。でも、いつかその誰かはかけがえのない大切な人になる。

追伸
おそらくボクが賞をもらって嬉しく思うのは,職人の仕事が評価された時かクライアントが評価された時だけだろう。

追々伸
ただ、独立間もなく実績の少ない新人の人は手段を選ぶ必要はないが、初めの一歩はとても大切。金のために設計はしないこと。同じ目的の施主から依頼が来るから。後でなかなか修正が利かない。



2、誠実は信頼の大地

 言うまでもなく、責任を負ったからといって何もせずに信頼が得られるわけもない。責任は信頼の種でしかない。その種が芽吹き、大きな木になるかは相性と建築家の誠実による。
 勘違いしてほしくないのは,誠実とは他者に仕向けるものではない。あくまでも自分自身に問うものである。信念に基づき自身で納得出来ればそれでいい。それがどんな結果になろうとも受け入れる覚悟が必要だ。砂漠に花は咲かないし,湿地にサボテンは育たない。人にも相性があり、それが自然だ。決して無理をして仕事を取りにいかないこと。いまの不安は解消されるが,そのツケは予想以上に大きい。実績は消せないし,言い訳は信頼と逆行する行為だ。不幸なのは施主と建築家だけじゃない。職人も事務所のスタッフも何よりそこで生まれた建築がかわいそうだ。

信頼が生まれる大地にしか愛される建築は生まれない。
 
 欲をかかないことだ。建築家は商売人じゃない。あらゆるのもを殺生し、再生させる聖職者だ。信念に従いずっと同じ方向を見て,同じ場所に立ち続ける。自分でうろうろ探しにいかない。変わらない姿勢こそが信頼だ。きっと誰かが見ている。いつ報われるかわは分からないが,その時はかなりの確率で相性がいいはずだ。



1、信頼は責任を超えられない。

 全てはこれに尽きると言っても過言ではない。信頼があれば多くのことは実現可能だし、かなりのことを省くことが出来る。最も無意味なことが,コンセプトワークとプレゼンテーション。そんな電通まがいの”騙しのテクニック”を最高学府の大学で力を入れて教えていることにも愕然とする。建築を騙し切ることはできない。建築の寿命は、それよりも永いからだ。大切なことは等身大の価値をありのままに伝えること。そして,それが受け入れられるための人間力を磨くこと。人間力とは信頼を得る力のこと。信頼は責任の重さ以上には得られない。多くの建築家が,必ず突き当たる壁がここにある。建築家が担うコンプライアンスという責任は、彼らが思うほど大きくはない。いまやコンプライアンスは前提条件である。建築の責任は経済がその大半である。それを知ってかしらずか建築家は、ちっぽけな責任を振りかざすので現場は混乱する。そして、クライアントは誰を信頼すべきかいっそう混乱する。
 悩んでいる建築家の皆さん。もう分かっていると思います。逃げるのはもう止めましょう。ぜんぶ責任を取る覚悟を決めれば楽になります。そのためのスキルを身につけましょう。今後数回に分けて私がやってきたことを紹介します。

0 件のコメント:

コメントを投稿